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ブラジャーは女性を拘束する象徴か?-ブラジャー私論

大阪府立大学名誉教授 堀江珠喜

(お断り)途中、エロティックとみなされる箇所があるかもしれませんので、「R15」指定を希望します。

【目次】
1 コロナで断捨離
2 思春期とブラジャー
3 ノーブラ運動
4 ブラジャー屋のアルバイト!
5 巨乳誕生
6 再びノーブラ!
7 ババア(私!)の決断

《コロナで断捨離》

「Stay home! おうちにいましょう! こんなときは断捨離を!」との小池都知事の言葉に従い、私もまた父の享年に達したこともあり、自らの「遺品整理」にとりかかることにした。
今年3月末定年退官の8ヵ月前から研究室内を片付け始め、かなり処分したが、自宅には不要品がまだ多い。
そこで私が、まず捨てたのは、ほとんどのブラジャーだ。理由は3つ。

① 50代になり5kg痩せ、カップが全然合わない。
② スーツなどのアウターと違い、他人に差し上げられない。
③ 引き出しの中で、かさばり邪魔!

どれも安物ではないし、後述するが、もともとブラジャー嫌いなので、使用頻度は少なく、惜しい気がしてこれまでキープしていた。
だが、サイズの合わないブラジャーなんて、どうしようもない。マスク替わりに用いる? 自分の手作りや昔の教え子から送られたマスクがあり、充分に足りている。我々の税金によるアベノマスクなんぞも要らぬお世話だ。
エイヤッと、不要ブラジャーを、自粛ストレス解消も兼ねて、紙袋に押し込んで捨てた。ああ、気持ちいい!

《思春期とブラジャー》

現代の女児は何歳ごろからブラジャーを付け始めるのだろう?
私の場合は、神戸女学院中学入学とほぼ同時だった。6年間の一貫教育で、18歳の立派な女性である高校3年生と同じ校舎で学ぶのだから、彼女らを手本に成長するのは当然だ。
正直、その頃は、ブラジャーは「大人の女性の仲間入り」アイテムに思え、付けたときは嬉しかった。

だが、1970年代に入り、世間の流行に従って、スカートがますます短くなり、タンクトップなど上半身の露出度も多くなると、ブラジャーのストラップがアウターからはみ出してしまう。

そこで、1971年夏、17歳でシアトルを訪れたとき、ストラップレスのを2つ購入した。当時の日本では、入手困難だったのだ。
帰国時、羽田空港税関でスーツケースを勢いよく開けると、このブラジャーが2つとも飛び出した。当惑した男性係員が、「こういうのは、ちゃんと見えないように入れておくように」と小声で言って、調べは終わった。
別に私は違法物を持ち込んではいなかったのだが、当時、ベトナム戦争反戦ムードとヒッピー文化に憧れる若者の増加で、税関はマリファナ密輸を警戒していたのだ。

《ノーブラ運動》

反戦は、反政府の立場にもなり、また、それまで良しとされていた様々な事象への疑念と反発をも伴った。アメリカでは1960年代からの公民権運動とともに、いわゆる「ウーマンリブ」運動も盛んになり、「ブラジャーは女性を拘束する象徴」とみなす新しい女性たちが、「ノーブラ」を始めた。

おそらくウーマンリブ闘志にとっては、女性だけにつけることを求められる下着は、女性に女性であることを強制することの象徴、であり、物理的拒否は、むしろ「女性が男性に支配されない精神を持つことの必要性」の具体的デモンストレーションだったはずだ。

いっぽう私の場合、好きな装いをするためには、ブラジャーのストラップも邪魔だし、背中が大きく開いたデザインを着るには、ベルト部分も邪魔になり、ついには、ブラジャーのフルカップも邪魔になった。
ウーマンリブには無関心だったが、アンダーバストを締め付けるのが鬱陶しく、またアウターからはみ出て見えるブラジャーが嫌で、結果として、私は彼女らが提唱する「ノーブラ」に飛びついた。もちろん、付けないと周囲がうるさそうなときには、賢く常識的行動をとった(つもりだ)が。

一般論として、女子校では男性の目がない(男性教師なんぞ、ごく一部を除き、オトコとはみなされていない)ので、生徒はのびのびと(大胆に)育ち得る。そのうえ、母校の神戸女学院は、あるレベル以上の成績をクリアしていれば、本来、個性を重んじる方針から私服通学でもあり、違法でない限り、うるさいことは言わない。我々高校生がスカート丈40センチのマイクロミニをはき、ロングヘアに大きなサングラス、編上げロングブーツにハンドバッグ姿で学校に現れても、である。
いちおう、指輪とマニキュア、髪染めは校則で禁止されていたが、だから何?という感じだった。在校中、我々の強い要望によって、パンツルックも解禁された。まあ、正式に認められる前に、多くの生徒達はジーンズをはいて通学していたが。だって、ピッピー文化全盛期のファッションだもの。英語教育に熱心な校風なら、アメリカの風俗を理解するのは当たり前でしょ?

《ブラジャー屋のアルバイト!》

神戸女学院大学に入ると、私は、単位を落とさない程度には勉強したが、もっぱらアルバイトと自主的課外活動(つまり他校男子学生たちとの交流)に精を出した。
しかも、ブラジャー嫌いの私が、あのワコールのブラジャー開発部でアルバイトをしたのだから、皮肉なものだ。
当時、ワコールは、多くの若い日本女性を集め、胸を採寸し、サイズ決定やデザイン作成のため、データを求めていた。もちろん女性社員が測定するのだが、上半身裸となる。それが恥ずかしい女性は来ない。従って、応募を決意させるだけの割の良いアルバイト料が支払われた。

この金額と採寸作業への興味から、私も採寸に応じることにしたのだが、このアルバイトから1ヵ月ほどたって、ワコールからモデル要請の電話を受けた。(当時の)85Bの理想的バストだったそうだ。
モデルといってもショーに出るわけではなく、社内で試作品をつけて感想を述べ、スタッフがチェックする、というだけのことだ。月一回くらいの頻度で、拘束時間のわりに高給だから、1年余り、本社に通った。
もともとブラジャー嫌いの私だから、試作品には文句をつけまくった。

その頃は、フルカップで胸を包み込むようなデザインが主流だったが、私の場合、それではアウターの胸元からブラジャーが見えてしまうので、つけるとしてもハーフカップ。それを主張し続けたのだ。
そもそも、我々女性は、まず行き先を考えて服装を選び、その服装に合わせて下着を整える。そのアウターに合わない下着など、願い下げだ。もちろん、なかには下着姿になることを想定して、まずインナーを選んでから、アウターを合わせる方も皆無ではなかろうが、私の人生において、そのような経験はない。「見えない所をオシャレしてこそ、本当のオシャレ」というが、私の場合、見える部分のオシャレで精一杯なのだ!

つまり、下着メーカーは、アウターの流行を把握した上でインナー開発を進めるのが、本来の順番ではあるまいか。だが、当時のブラジャー開発部は、女性の胸ばかりを見て、ブラジャーの上に何を着るか、までの想像力に欠けていたのではあるまいか。少なくとも、私がアルバイトしていたときに、ハーフカップの試着は一度もなかった。(最近、こういうとき「ハーフカップには一度もおめにかからなかった」みたいな表現をするプロの作家がいるが、明らかに日本語の誤用だ。おめ、すなわち「御目」は、相手の目を表す。ハーフカップには「目」なんぞ、ない! 念のため!)

ワコールから依頼が来なくなったのは、私の毒舌のせいではない。なぜか、私のバストサイズが、劇的に変化したためだ。

《巨乳誕生!》

本当に、なぜだかわからないが、大学4年〜修士課程のころの私の胸は、人生の中で最も「巨乳」となった。決して妊娠したわけでもなく、体重変化もない。51Kg前後のままだ。
察するに、人間の女性といえども動物のメスだから、最も子孫を残しやすい時期に、オスの目を惹き付けるよう、体が変化したのではあるまいか。
ブラジャー嫌いの私でも、さすがにこの頃は、付けないと揺れて痛い、という稀なる体験をした。肩が凝るほどの重みはなかったが、当時の写真を見ると、その大きさに自分でも驚く。しかもボディラインが強調される服装だから、なおさらだ。

残念ながら、というべきか、身体が「メス」全開でも、大学〜大学院生活の私は、男性たちとは広く浅く、勉強の息抜きとしてデートする主義だった。「オス」ではなく「オフ」を楽しむのだ。
そんな相手としてのボーイフレンドが、常に5人くらいいた。複数いると、一人に心を奪われ、勉強に支障をきたす心配はない。決して私は勉強好きではないが、経済的自立という目的を達成するには、当時、最もそれが近道に思われただけのことだ。

「嫌な女!」と思われることを覚悟で、敢えて書くが、「巨乳」だから複数ボーイフレンドがいたわけではないと信じている。一般論として、当時は、「神戸女学院性」というだけでモテたのだ。(まあ、小学生のとき、他の子供達が楽しそうに遊んでいるときに、中学受験のため自分なりに勉強したのだから、その努力のご褒美があってもよかろう。)

よく欧米ファッションブランドに弱い女性を軽薄と批判する向きもあるが、「学歴ブランド」大好きな、インテリ・ブルジョア男性は多い。というか、そんな男性ほど、「本命」には「巨乳」より「学歴ブランド」を選ぶものだ。世の中は不公平だが、それが現実なのだ。それで良いとは言わないが、現状認識をした上でなければ、改革もできまい。
さて、博士課程は神戸大学に移った私だが、そこでも「神戸女学院から来た」という触れ込みは、何人もの男性教員の目の色を変えさせた。断じて「巨乳」のおかげではない!

《再びノーブラ!》

どういうわけか、27歳で結婚する頃には、胸のサイズはフツウに戻った。従って、ブラジャーも外出時に必要なときだけ付けるようになった。
あるとき、夫に尋ねた。
「タンクトップにブラジャーをするとストラップが出るのよ。ノーブラじゃ変かしら?」
アメリカ滞在中に買った例のストラップレスは、帰国後に痩せたため、使えなかった。

すると夫の答えは、
「乳首があるのは当たり前だから、恥ずかしがる必要はない!」
これには、目からウロコ、だった。

そう、そうなのだ。乳首があって当然なのだ。それが本来の乳部の役目の主役なのに、なぜ、それがないかのように覆わなきゃならんのだ? 母性の否定に他ならない!
今から思うと、夫の母も私の母も、大正生まれで、現代女性ほどにはブラジャーに執着しなかっただろう。そもそも現在のブラジャーの原型は、1913年に米国のメアリー・ジェイコブが考案し、翌年に特許を取得したものだ。
洋装の歴史が浅い日本では、当然、一般女性によるブラジャー使用年月も短い。私の母は、戦前のモダンガールだったから、若い頃からブラジャーくらいは持っていたはずだが、今の私と同様、カップが小さかったこともあり、いつも付けていたわけではない。そのかわりスリップは、常時、着用していた。(私の場合、とっくにほとんどのスリップは断捨離済。)

おそらくは、若くして亡くなったので会う機会もなかった義母(夫の母)は、写真で見る限り和服好みだったので、ブラジャーは日常的に不要だったと思われる。
要するに、ブラジャー絶対主義者ではない母親に育てられたため、夫も私も、「付けたくなければなしで良し」と、自然に思うようになったのだろう。
世の中、単なる「思い込み」によって、窮屈で不自由な生活を送るハメになることがあるが、私にとっては、ブラジャーこそが、その「象徴」なのだ、などと、格好をつけるほどのことはなく、単に、鬱陶しいわりには美しさを演出してくれず、コスパが悪い!というわけである。

《ババア(私!)の決断》

60歳の夏、知人の宴会打ち合わせで、小学校時代の初恋の男性に会った。来るのは分かっていたので、サプライズでもないし、いまさらワクワク感もなし。
開口一番、彼は私にこう囁いた。
「タマキちゃん、もしかしてノーブラ?」
「そうだけど、それが何か?」
この堂々とした返答に、彼は黙った。

厚手のニットだから、なんとなく乳頭部の形がわかったのだろう。真っ赤なミニのワンピースにピンヒール姿だったので、まさか私の小さ胸に人々は目を向けまいと思っていたが、さすがに元警官の彼は観察力が鋭い。
また、60歳で乳がん検診無料券が行政から送られてきたので、近くのクリニックへ。どうせ胸の診察だからと、ノーブラで黒ワイシャツを着て行った。男性医師の前でさっとボタンを外して勢いよく開けると、彼は「わああ、カッコいい!」と、かなり驚いた様子。断っておくが、カッコいいのは胸の形ではなく、私の脱ぎっぷりについてである。遠山の金さんが桜吹雪を見せるのだって、カッコよく脱いでこそ、だ。後から聞くと、多くの女性は、ブラジャーを付けたまま診察を受けるらしい。変なの!

胸の医者に胸を見せるのは、当たり前だ。歯医者に歯を見せるのと何が違う?
ついでに言うと、(ここ20年余りは診察を受ける必要がなく現状を知らないが)、私の若い頃は、産婦人科の診察時、仰向けに寝るとヘソの辺りにカーテンがあり、医者が私の下半身に何をしているのかわからない状態だった。不安というより不愉快で、カーテンを勢いよく開けたところ、熟年男性医師が慌てて「開けないでください。僕が恥ずかしいじゃないですか!」と、訳のわからない言葉で叱られた。あの、産婦人科医って、見られて恥ずかしい仕事をしているんですか?

さて、ブラジャーに話を戻そう。
適切なブラジャーをつけないと胸の形が崩れます、とメーカーは言う。そうかもしれない。だが、加齢によるたるみや、ホルモンの変化で、どうせ、若いときの形は保てない。それなら筋力を鍛えるほうが有効かも?
まあ、そんなこんなで、このババアは決めた。

① 家庭内ではノーブラ。
② できれば初めから服にカップ部分が付いているものを選ぶ(デザインや材質によるが、ブランドによっては付けてくれる)。あるいは付けられるなら手芸店で売っているカップを、手縫いで服につける。
③ 外出時は、どうしてもという場合だけハーフカップ、またはヌーブラ。イヴニングドレスなど露出部が大きいときには、乳頭にガムテープを貼る。

そうそう、私が神戸大学院生の頃、受講生が私だけという仏文のクラスで、東大卒男性教授から「ニップレス」の存在を教えられた。丸型のバンドエイドみたいなシロモノだ。私が、ロングヘア、サングラス、ノーブラ&タンクトップ、マキシスカート姿で、教養部長室に入り、扉が閉まって2時間近く出てこなかったので、職員たちが騒いだとか。(教養部長だった教授の講義を、やはり私だけが受けていたので、教室ではなく学部長室で行われたのだが、私が博士課程第一期生だったため、職員たちが事情を理解できていなかったようだ。当然ながら、「誤解」したほうが、ゴシップとして、彼らには楽しいに決っている。まして当時、学生の半数近くを預かる教養部トップは、学長に次ぐ権力者らしく、運転手付きの車が使えた。そんな大物の噂は、尾ひれをつけて広げたくなるだろう。いくら私でもノーブラではなかったと思うが。)

当時はニップレスを扱う薬局が多かったが、いつの間にか市場から消えた。現在では通販で入手可能だが、結構、価格が高い。ガムテープでノープロブレム!
聞けば、パリコレなどのファッションショーでも、モデルはガムテープを使うことが多いとか。それも、私のようなニップレス代わりではなく、宅配便梱包のごとく、胸を持ち上げるためにグルグル巻にすることもあるのだそうだ。まさに優雅な白鳥の水面下のドタバタである。
さて、ブラジャーの断捨離中、黒いレースのハーフカップを見つけた。一度も付けたことがない。なぜならレースが皮膚に不快感を与えそうだから。

では、なぜ手元にあるのか?
実はこれ、私の院生時代、留学生だった、某国外交官の息子からのプレゼント。ただし、彼とは、キスもしたことがなく、ましてやそれ以上の関係にもならなかった。思い出すデートは、大阪の寺町にある栗東寺(近松門左衛門作『曽根崎心中』でもこの名が使われているので、業界ではまあまあ格式あると思しき寺)へ私の母方の墓参りに連れて行ったこと、百貨店での三島由紀夫展、梅田のディスコ(あのときの入場料は私が立て替えたまま、返してもらった記憶がない!)だけ。
その彼が、帰国時に、「本当はこれをつけた姿を見たいけど、無理だよね。でも受け取って欲しい」と、ラッピングした箱をくれたのだ。

持ち帰り、開けてビックリ!どうやって私のサイズを知ったのか? いや、付けていないので合うか定かではないが、表示から察するに大丈夫そうではある。
邪魔になる大きさでもなし、捨てるのはまたの機会にして、とりあえずはタンスの引き出しに入れた。「青春のさわやかな思い出のアイテム」が、「黒いレースのエロティックなブラジャー」という対照的組み合わせが、このババアのお気に召したのだ。やれやれ!