News

category

女性は嘘をつくのか? 

大阪府立大学名誉教授 堀江珠喜

目次

《なぜ女性は嘘をつくのか?》
《「嘘」も「要領」のうち》
《開き直れる男性》
《女性は母親から「嘘」を学ぶ?》
《「嘘」のつけない男性》
《終わりに》

 

「女性はいくらでも嘘をつける」旨の杉田某発言は、あの状況では不適切と思わざるを得ない。だが「男も嘘をつく」とか「その発言は女性差別」との反論にも、違和感があるのは私だけだろうか。そもそも女性である杉田某に対し、「じゃあ、貴女の言葉も嘘ですね!」と言い返したら幕引きではないか。
などと偉そうなことを言いながら、これから毒舌を綴る契機にしようとする暇な年金ババアの我が魂胆を、賢明な読者の皆様は、お見通しに違いあるまい。それでも、しばしお付き合いいただけたら嬉しい。

《なぜ女性は嘘をつくのか?》

学生たちには、必ずwhat, why, howの順番で考察するように指導しているのだが、どうも日本社会では、最初のwhat のみが語られて終わるきらいがある。
「女性は嘘をつく」とすれば、それはどうしてなのか?を考えるべきだ。確かに、詐欺や虚言癖を除けば、日常的には、私自身も含め、フツウの男性に比べてフツウの女性のほうが「嘘」をつくことが多いように思う。(日常的な「嘘」にもいろいろな種類があるが、この場では、とりあえずひっくるめて「嘘」と呼ぶことにする。)
なぜなら、「嘘」をつかなければならない、あるいはついたほうがよさそうな状況に置かれることが多いからである。

陰暦使用の時代、「卵の四角と女郎の誠、あれば晦日に月が出る」などと言われた。
今とは比べ物にならない男性中心&格差社会で、貧しく若い女性の働き先など、限られていた。(ちなみにその頃、貧困老人はほぼ鬼籍に入っていた。)そんな苦界の女性は、ビジネストークで男性客を喜ばせねばならず、それを「嘘」と怒るのは「野暮」なのだ。
客の男性だって、口から出まかせで遊んだかもしれない。しかし、女性が男性の機嫌を取る必要がある社会状況では、古今東西、女性は「嘘」をつかねば生きてゆけまい。いわばサバイバル・ツールとしてのレトリックが「嘘」であったら、どうだというのだ。
そう、生きるために「嘘」をつかなければならない環境に女性を追い込む男性社会こそ、「女性差別」社会なのだ。逆説的に、杉田某発言は、現代社会において、そんな女性差別がまだ存在することを、より明らかにしてくれたのである。

《開き直れる男性》

私より少し上の世代なら、裕福な男性の浮気は当然で、むしろ「甲斐性」扱いされたものだ。だから、男性が必死で「嘘」をつく必要がなかった(このサイトの拙文で、以前に紹介した恐妻家・松下幸之助の嘘とアリバイ工作は、むしろ例外的な存在と言えよう。)
では、知人のシニア夫妻から伺った実話を紹介しよう。
夫は、医学部志望者専門の予備校経営者。ハンサムでも長身でもないが、なかなかの好人物。ある夜遅く帰宅したところ、妻が問いただし、こんなやり取りとなったとか。

「アンタ、今までどこにいはりましたん?」
「どこて、ワシが嘘つかんといかんような質問するな!」
「そうかて、Aさんから電話があって、アンタの車を〇〇(いわゆる色街の名)で見たんやて」
「もう知ってんねんやったら、それでええやないか」

また、別の夜には、妻の横で寝ていた彼が、飛び起きて叫んだ。

「エライコッチャ!家へ帰らなあかん!」
「アンタ、どこにいるつもり?」
「どこにいても、家に帰ろうと、いつも思うてんねやがな!」

私は、これらのコミカルな話が大好きだが、「夫」と「妻」の立場を入れ替えるわけにはゆかない。経済的自立力のない女性の場合、不適切な性的関係については、絶対に隠さねばならない。そのために、「嘘」もつく。そして、一般論として、その「嘘」が、男性の「嘘」に比べれば、巧でバレにくいのは、ひとつには「生活手段」を守らねばならないからなのだ。

《女性は母親から「嘘」を学ぶ?》

そもそも「嘘」は悪いのだろうか。
偽悪的耽美主義者オスカー・ワイルドは、エッセイ『嘘の衰退』で「芸術の目的は、美しい嘘をつくこと」との旨を語る。
もちろん子どもは正直なほうが扱いやすいから、大人は「嘘をついてはいけません」と言い聞かせて育てる。
しかし、ちょっと観察力のある子なら、親、それも、より長く一緒にいる女親が嘘をつく場面を見つけてしまう。たいていは、悪意のある「嘘」ではなく、white lie で、それが良好な人間関係に必要だと徐々に理解するだろう。
「嘘つきは泥棒の始まり」かもしれないが、「嘘も方便」でもあるのだ。
お世辞だって、ある種の「嘘」だ。しかし、「嘘」で相手が喜び、雰囲気が和やかになることを、女性は男性よりもよく知っており、活用する。

私の母も、世の親と同様、家庭教育においては「嘘をついてはいけません」派だったが、何度か母娘連合で、「嘘」を突き通したことがある。その代表例は、1988年2月、両親が結婚40周年記念パリ旅行から帰って間もなく、父の舌癌が判明したときだ。
当時は、本人に癌の病名を伝えるか否か、医師が家族の意見を尊重してくれた。戦争中は、陸軍中野学校出身の情報将校として外地に送られ、戦後は企業経営を始めた父ではあったが、実は気の小さい人間であることを、その妻・娘ともに見抜いていた。
医者は「不治」とまでは言わなかったが、なんとなくその予感もあり、何より小心者の父が「癌」と聞いたときの精神状態を考えると、病名は「良性ポリープ」が適当と母が判断し、私も同意した。本人も、その言葉を聞きたがっているなら、敢えて真実を告げて悲しませる必要などない。不幸中の幸いで、その数年前から、父は次期社長を決め、その年の6月に相談役に退く段取りをつけていた。
ガン保険金の受け取り手続きは、本人には内緒で、私が行った。保険会社も慣れたもので、患者の目に触れても良いよう、社名の入らない白い封筒で、母あてに記入必要書類を送ってくれ、母の口座に振り込まれた。
結局、入退院を繰り返し、5月には2度目の手術を受けるのだが、我々母娘と口裏を合わせた医師は、本人には「ちょっとした首のお掃除です」と告げ、(記憶違いでなければ)私には「頸静脈一本を癌細胞とともに切除するので、頸動脈にメスが触れ出血多量死もある」との説明があった。なにが「ちょっとしたお掃除」だ!

ここで問題発生。海外旅行マニアの母が、東ドイツツアーを予定していた日程中に、手術が行われることになったのだ。フツウの家庭なら、当然、「お遊び」キャンセルだ。だが、そこが我が家の変なところで、父は私に「大した手術じゃないから、お母様に行かせてやってくれ」と頼むのだ。行きたいし、心配だしと迷うところが、また我が母らしい。フツウなら、自主的にキャンセルするだろうに。
手術の致死可能性を医師から聞かされたのは私だけだ。もし母が海外旅行をキャンセルしたら、父は手術の深刻さを疑うかもしれない。というわけで、「大した手術じゃないから行ってらっしゃいよ」と母を東ドイツに送り出し、手術中は、もしものことがあったら、親戚たちにどう取り繕うかと「嘘」をあれこれと考えた。
幸い、手術は成功したが、「お母様はいらっしゃらないのですか」と尋ねる看護師に、「母は気が弱くて、とても耐えられないと家におります。傷が瘉えるまで、しばらく来れないかもしれません」などと、また「嘘」をつくハメになる。誰が、気が弱いんじゃ!こんな「嘘つき女」に誰がした?
その年の8月には病室でチューブによる食事となり、余命1カ月を宣告された。母の命令で、すぐに私は父の会社に行き、事情を話し、葬式の会場手配を相談し、費用と労力を会社に出させる約束をさせた。それまでは会社にも癌であることは伏せていた。アホな社員が、見舞いで失言しかねなかったから。
だが、体力があったようで、10月になっても生きていた。さすがにこの頃になると、本人も我々には言わなかったが(というか発声ができず、筆談と目や手の動きだけがコミュニケーションの手段だったのだが)、たぶん死が近づいたことを察しただろう。そのストレスで胃潰瘍を発症した。(もし、2月に告げていたら、もっと早く、胃にダメージを与えたかもしれない。)

いかなる延命処置も、我々母娘は断り、痛みを感じないよう、また、悲観的にならぬよう意識朦朧状態にして欲しいとの希望を医師に伝え、その通り、父は一日の大部分、眠ったようになった。
私が長々とこの件を書くのは、ちょうど今の私の年齢で父が亡くなったからだ。親の享年になると変な気分である。父が亡くなったのは11月25日、三島由紀夫の祥月命日。今年は父の33回忌で、三島由紀夫没後50年だ。私は無宗教、無神論者なので父の法事はしないが、三島由紀夫についての講演をする予定はある。

果たして、父に癌と余命を告げなくて良かったのだろうか、父の命は父のものなのだから?などと、後悔したことは全くない。なぜなら「嘘」をついたのは、40年、父と暮らした母の選択を支持したかったからだ。さらに私はいつも、死人や死にゆく人間ではなく、これから生き残らなければならない人間の肉体的・精神的状況を優先して考える。
そのうえ、父は「本当は悪性ではないのか」などと、医師や我々に、一度も詰問しなかった。真実を知るより、「癌」という言葉を聞きたくない気持ちのほうが大きかったからだと推測する。要するに騙されたかったのだ。我々は、死を迎えようとしている父が、すがりたい言葉を告げたと信じている。

そのいっぽう、私自身が、今、致死の病に罹っていたなら、もちろん余命の短さを知りたい。なぜなら子供がいないので、終活をきちんとしておきたいから。しかし、選べるならば13年前に亡くなった母のように、ピンピンコロリのほうが良いに決っている。死後のことは、えい、ままよ!だ。
父の死後も、我々母娘連合は、無駄な出費を抑え、年金生活の母の暮らし向きがそれほど悪くならないように、無邪気な「嘘」をつき続けた。父の発病前から上向いた日本経済は、死後、バブルを迎えた。だから「父の持ち株を買ってくれる人を見つけて欲しい。母の生活が苦しいので」と会社に申し出ると、ホイホイと、通常より高値換金OK。母がその金をすべて、海外旅行に使ったのは、言うまでもない。
一般論だが、娘は母の価値観に感化され、その社交術を学ぶことが多い。母と私はどちらかというと仲が悪かったが、それは鏡の中の自分、あるいは同類への嫌悪に近かったようにも思う。

《「嘘」も「要領」のうち》 

すでに思春期において、女子には男子より厳しい親の監視があり、休日の外出や門限を過ぎるときには同性の友と口裏を合わせてもらうなど、親に「嘘」をつくことで、家庭内トラブルを回避する知恵がついたかもしれない(これは、一人娘だった私の話でもあるが、うるさい家では似たり寄ったりではなかったか?)
つまり、女子の育て方が、「嘘」をつかせる状況に娘を追いこんだと言えよう。もちろん、親が心配する気持ちもわかるが、時間で束縛しても、「賢い子」は、ちゃんと恋愛を楽しみ、知らん顔で帰宅するものだ。
あるいは、煩い親に従い、夕食までに帰宅するため、大学時代の私は、サボれると判断した授業は欠席し、自動車を持つボーイフレンドに、神戸女学院の校舎横付けで、迎えに来てもらい、ランチ&ティタイムデート後はまた校舎横付けで、サボれない授業に間に合うように、送ってもらった。
当時も母校正門前の坂下に、ガールフレンドを迎える男性たちの車が並ぶことは日常だったが、校舎横付けは、私くらいだったって、自慢にもならないが、前例のないことをするのが怖くなかったのだ。親のほうがもっと怖かったから。ちなみに現在の神戸女学院では、原則、自家用車乗り入れ禁止になっている。

口煩い親のおかげで、優先順位を決め、時間を巧く使うなど、要領が良くなったのは、収穫であった。このスキルは、後年、仕事が忙しくなったときに活かされることになる。
そんな私の人生は、結婚によって一変した。「自由」を得たのだ! もう門限もない! 夫には「嘘」をつく必要もなかった。なぜなら、彼はなにも尋ねないから。「今日は遅くなる」といえば、それで会話は終了だ。

しかし、他の男性には相手を傷つけないための「嘘」をついた。
非常勤講師として某大学へ出講した若き日に、やはり非常勤で教えに来ていた男性から「夕食でもご一緒に」と誘われたとき、私の返答は「有難うございます。でも残念ながら、家で子猫が餌を待っておりますので」。 家には、文字通り、猫の子一匹いない。「嘘」をついちゃいけない? では、「私を誘うなんて、百年早い!」と本音で断るべきなのか。まさか。

私の世代では、デートは男性が女性を誘うパターンだった。だからこそ、男性上司が部下の女性を誘ってのセクハラ行為、などというのが日常茶飯でもあったのだ。
つまり誘われる可能性のある女性は、身を守り、さらに相手を傷つけず巧く断るための「嘘」を常に用意しておく必要があったのだ。たぶん、私の世代の女性は、この類の「嘘」は上手だったと思う。
ここにも女性に「嘘」をつかせる社会的システムが、うかがえよう。
ちなみに、この「子猫」で断った話を、残業で遅く帰宅した夫に話したところ、「もったいない。フランス料理でも奢ってもらったら良かったのに」との反応だった。
こんな昔話が自分でも懐かしくなるのは、もう「子猫」を断りの口実にする機会もなくなってしまったからだろう。しかし、老後も「嘘」は必要だ。「まあ、お久しぶり。でもちっともお変わりじゃないわね。お若い!」「あら、貴女こそ」って、嘘つきごっこが、愉快なシニアライフにおいては不可欠なのである。

《「嘘」のつけない男性》

このように、家庭的・社会的に、リスク管理や社交のための「嘘」を必要とする女性に比べて、多くの男性は「嘘」を考えずに生きられる。その結果、良く言えば「純粋」、悪く言えば「気が利かない」&「お人好し」になる。

「そうよ、どうして男性は、相手の気持ちも考えずに、ストレートな発言しかできないのかとイライラする」とは、我が家によくいらっしゃる芦屋マダムたち。
「女性は、人間関係の潤滑油として「嘘」を使うのに、男性って、鈍感!」

そもそも「嘘」をつく以上、いつ、何を、誰に言ったかを、ちゃんと覚えおく記憶力とマネージメント能力がないと辻褄が合わなくなる。だから、自分の発言を忘れるきらいのある男性の「嘘」は、ついても、すぐにバレる。一般的に男性に比べて女性は観察眼や勘も鋭く、相手の言葉をよく覚えているから、「嘘」を見破りやすい。従って、男性から簡単に見破られるような下手な「嘘」を、女性はつかない。
さらに、「嘘」は、ある種の「フィクション」だから、想像力と創作力を必要とする。つまり、知的作業が求められるのだ。先述のワイルドの「嘘」が「芸術」と同義語であるかのような指摘も、このような芸術家が備えるべき能力ゆえなのだ。彼は、桜の木について嘘がつけなかったような男(ジョージ・ワシントン)を英雄に奉る国が、俗悪で非芸術的なのは当然だと考える。

もちろん我々の日常的な「嘘」は、芸術云々のレベルではないが、通じるところはあるのだ。
芸術家に審美眼があるように、「嘘」をつく女性は「嘘」を見破る能力にも長けている。ただし、それが悪気のない「人間関係の潤滑油」である場合は、騙されたふりをして「和」を尊重する。真実を追求して喧嘩する必要などない。
だが、「嘘」をついたことのない男性は、いとも簡単に(詐欺師とまでは呼べないレベルの)女性の「嘘」に騙される。しかも(私が知る限り)騙される男性は、高学歴、高収入で社会的地位が高い中高年、ときている。そこに若く美しい(ときには、昔は若くて美しかった)女性が寄ってきたなら、それだけで疑うべきだが、こういう男性は、自己評価の高い、自惚れ屋さんなのだ。
このような男性に対する女性の「嘘」については、同性なら「怪しい」と直感し、やがてボロを見つけ出す。ときには、すぐに「嘘」を見抜く。

十数年前だが、私も、某メガバンク元役員に、若い「彼女」を紹介され、ともに六本木でアフタヌーンティーをいただいたとき、「怪しい」と判断したが、翌日かかってきた彼の電話には、「素敵な方ね」と答えた。騙されていたほうが幸せ、ということはあるからだ。
すると彼は明るい声で、
「珠喜さんがそう言ってくれて嬉しいよ。彼女もあれこれと自分磨きの様々なレッスンを受けて、よくやっていると思うよ。収入も少ないのに」
で、私は「まあ、いろいろあるんでしょう」と、謎めいた言葉をヒントとして伝えたが、彼はまったくその意味をキャッチせず、純粋に喜びを噛み締めていた。

それから半年後、彼から「騙されていた」との連絡。
「だから、あのとき『いろいろあるんでしょう』と私、言いましたよ」
男性にしては珍しく、そのときの私の言葉を覚えていた彼は、「確かに。珠喜さん、わかっていて今まで黙っていてくれたんだね、有難う」と、メチャクチャ素直。いい人なのだ。
「だって、アナタが夢中になっているときは、どうせ私が何を言っても聞く耳を持たないでしょ。私が憎まれるだけだし、まあ今まで楽しめたからよかったじゃない」
「それにしても、どうして『嘘』がわかった?」
「逆に、どうしてアナタにはわからなかったの?」
「だって、僕、本当のことしかいわないから、「嘘」をつくというのが感覚的にわからない」
なるほど!である。

そもそも彼女とは「愛人バンク」で知り合っていた。懐かしい言葉だ。1980年代初めに若い女性を裕福な男性に紹介する組織「夕ぐれ族」が一世を風靡した。あの当時、創業者という若い女性社長・筒見待子をテレビで観たとき、「嘘だ!こんな小娘に、ヤクザ稼業の売春斡旋元締めなど、できるはずがない」と私は疑った。マスコミは、一時、彼女をアイドル扱いしたが、やがて警察の捜査が入り彼女は逮捕。年齢、経歴も嘘で、やはり彼女は経営者どころか、月給30万円の広告塔に過ぎなかった。
(後年、スタップ細胞のヒロインをマスコミがもてはやしていたとき、なんだか私にはデジャヴュに思えたのだが、そう、最初に筒見待子を画面で見たときに似た不信感を抱いたのだ。「夕ぐれ族」と次元は異なるが、「こんな小娘に、それほどの研究ができるわけがない」と、文系だが学者の端くれの私は最初のニュースから思っていた。もしかして、金儲けのため、マスコミはわざと騙されたふりをするのだろうか。)
「夕ぐれ族」は解散したが、そのような類似組織は密かに存在し続けているようだ。くだんの男性が利用したのは会員制で、しかも入会には会員の紹介が必要とか。もちろん広告などしていない。信用できる会員の口コミのみで、それでもビジネスが成り立っているらしい。
ともかく、彼は「四角い卵」の存在を信じてしまったのだ。
彼女は「愛人バンクを辞めた」と言っていたのに、続けて何人もの裕福な男性からお金を受け取っていたとか。もちろん彼からも、ちょっとした小遣いくらいは貰っていた。しかし小遣い程度では東京での女性一人暮らしには、全く足りない。じゃあ、どうするのか。正業では食べるのが精一杯の女性が、自分の「美しさ」&「若さ」に換金価値があると知ったとき、贅沢の誘惑に打ち勝つのは容易ではあるまい。
「彼女が悪い」と批判するのは簡単だが、その前に、そのような男性中心社会の構図に問題がないのかも考えるべきではあるまいか。裕福な中高年男性と若い低収入美女、こんな組み合わせがフツウに存在するのは、なぜなのだろう。そして、後者は、ちょっと贅沢が味わえる生活維持のために「嘘」で身を固める。

ではもう一つ、やはり十数年だが、分かりやすい女性の「嘘」に騙された紳士の実例を。
神戸大学の大先輩で同族会社重役の高齢男性が、昔、馴染みだった北新地の元ホステスと再会し、よりを戻すにあたって、こう言われたとか。
「再会の記念に、リーガロイヤルホテルのブティックSで、コートを買ってね。いいのを見つけて、お取り置きしてもらっているの。20万円よ。お金をくださったら、私がお店に行ってくるから」
で、彼は即答を避け、なぜか私に相談。どうも教師をしていると、悩みを打ち明けやすい雰囲気を漂わせるらしい。当時、恋愛をテーマに執筆やマスコミ出演していた私は、興味津々と聞き、即座に、彼女の話は「嘘」と思った。ブティックSは、高級店だ。20万円でコートが買えるはずがない。しかし、彼が出しそうな金額を熟知して提示するのは流石だ。
「どんな素敵なコートでしょう。拝見したいわ」
「取り置きしてあるらしいから、見てきて。彼女の名前は〇〇」
早速、大学の帰りに寄って尋ねたが、やはりそんな取り置き品はないし、私が思った通り、その値段でコートは無理。これは正直に大先輩に報告。結局、よりは戻さなかったようだ。

この件を、後日、江戸時代から続く船場老舗のご隠居に面白おかしく話したところ、ご老人は小馬鹿にしたように、こうコメントされた。
「20万円くらい、騙されたふりして、さっさと渡したらええねん。相手は『オミズ』なんやから、『嘘』をついて当たり前やないか。タダで遊ぼうとする男のほうが悪い」
四角い卵などないと、ちゃんと理解しておられる。
女性蔑視と言われようと、このご隠居のレトロな価値観に拍手したくなるのは、その不思議なオーラに包まれてしまうからだろうか。昨今のIT長者どもにはない、高級骨董のような老舗独特の風格が私は好きだ。
だが、そもそも会社の交際費でしか行けないような北新地や銀座の高級クラブのような存在こそ、日本がまだ男性社会であることの証だと、私は寂しく思う。企業幹部職やしかるべき官僚の地位に女性が多く進出できたなら、そんな場所での接待など成立するはずがないのだから。
女性が本当に日本社会で活躍できるようになれば、四角い卵を夢見て幻滅する男性も減るかもしれない。

《終わりに》

「何」を言ったか、よりも、「誰」が言ったかによって、受け止められ方が違う。
杉田某の場合、炎上によって、レゾンデートルを保っているふしもあるが、あの状況では控えるべきだった。異なったテーマにおいて、テレビでお馴染み軽薄コメンテーターが「女性は嘘つき」と言ったなら、「そうそう」と、和やかに終わったかもしれないのだが。

私も「日常生活において、男性に比べ、女性のほうが『嘘』をつく」と断言する。
しかし、それは女性が男性中心社会において、低く弱い立場に置かれて苦労しているから。家庭においてもより良い雰囲気を作り、家族に幸せを感じて欲しいと望むから。そのため、仲間内でも助け合えるように、好ましい関係を築いていたいからだ。さらに、男性に比べ、言葉の使い方が巧く、観察力、想像力、創作力、演技力に優れているからこそ、「嘘」が可能なのである。

さて、私の考察パターンではhowが残っているが、「嘘も方便」派の私としては、とりたてて、フツウの「嘘つき女性」を真っ正直な女性に更生させるなど余計なお世話と考える。ただし、男性社会が女性の正当な能力を活かし、平等の権利を認めてくれたなら、その結果、女性が真の意味で経済的自立ができたなら、これまでのような「嘘」をつかねばならない状況も減るかもしれない。だが、そうなれば別の局面での「嘘」が必要になる可能性もある。
(そうそう、我が現役教授時代、同僚の男性教授たちの場当たり的な「嘘」には、ずいぶん迷惑した。あれは「嘘」というより、下手な言い訳で誤魔化そうとしたのか。バレバレなのに。)

同様に、20余年前の名誉毀損訴訟の裁判では、被告の企業研究職男性が並べる愚かで下手な「嘘」の数々にはウンザリ。原告の私が証言台に立つ前、男性弁護士からこう耳打ちされた「嘘をつくと偽証罪ですが、記憶力には限界があるので、覚えていないとか、記憶違いは問題ありません」。なるほど。
もちろん私が勝訴した。負ける喧嘩はしない主義だ。有り難いことに、感情抑制できない被告が私を攻撃しようとしてついた下手な「嘘」で自分の首を絞める結果となった、つまり自爆してくれたのだ。やれやれ。

もっとも、フツウの女性やその辺のアホな男性がつく「嘘」程度では、国家や社会は崩壊しない。
その社会を中心で担う男性たちの「嘘」こそが、国家を揺るがす。太平洋戦争中の大本営が発表した連戦連勝の「大嘘」が、どれだけの悲劇を招いたことだろう。
戦争といえば、「嘘」が武器である旨、つまり偽情報を敵国に信じ込ませる戦法が有効であると、孫子はすでに紀元前500年頃に記している。
こう考えると、「嘘」とは、なかなか奥深い「技(art)」ではあるまいか。